【第八話:札幌軟石の誕生直前】

 箱館戦争前の安政元年(1854)2月26日(旧暦)外国に開港した箱館は、食料や水の供給でにわかに騒々しくなり、箱館戦争が終結した明治2年(1869)5月18日(旧暦)頃には、以前にも増して外国船用の石炭供給を各国領事館から明治新政府に求める声が高くなってきました。
 その頃の北海道では、まだ茅沼炭山でしか石炭の採掘が行なわれていなかったため、明治新政府は11月10日
(旧暦)に札幌に本府設置を決定後、開拓使次官となった黒田清隆が、殆ど未開拓の北海道の農耕・ 地質などの調査をアメリカ政府に依頼し、顧問として明治4年(1871)5月5日(旧暦)アメリカの農務長官であったホーレス・ケプロンが任命されました。



黒田清隆開拓使次官

 早速ケプロンは彼の助手として選任した地質鉱物技師のトマス・アンチセル、土木技師のA・G・ワーフィールドを9月から北海道に派遣し、茅沼・幌内両炭山や地質鉱物調査を実施しています。その調査結果報告書が11月には黒田開拓使次官に提出され、報告書の書簡には「穴の澤」で軟石が発見されたと通説ではなっていますが定かではありません。(※)



左からJ・クラーク H・ケプロン T・アンチセル
A・G・ワーフィールド S・エルドリッジ

 明治5年(1872)に大岡助右衛門が円山村で石山を発見後、開拓使に採掘を出願しました。また、八垂別(藻岩)の硬石山も同年に発見され採掘が始まっています。
 同様に明治5年(1872)7月から8月にかけて、開拓使は札幌郡平岸村字穴の澤(今の藻南公園から石山陸橋附近にかけて)に茅小屋を5棟建て、採掘準備に取り掛かりました。
 茅小屋を建てたと言っても定住用の住居ではなく、5棟の総坪数も135坪であり、軟石採掘の調査と準備のための掛官と開拓使から雇われた数人の工夫だけであったものと思われます。

 これが、石山の町や約4万年からの眠りから覚ようとしている札幌軟石の誕生直前の姿です。

 
※明治12年(1879)1月17日に開拓使本庁が焼失したため、この報告書の一部が紛失し、記録として残存していない。

参考文献:札幌沿革史、開拓使事業報告書、あらうんどthe北海道全駅舎めぐり
     石山百年の歩み、ホーレス・ケプロン日誌


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